感情について一つ思うことがあって、それはこちらがそれにこだわり怒っていたとしても、その原因になった人は、そんなことをとっくに忘れ、むしろ考えていた気配もなく、機嫌よく過ごしているのではないかな、ということです。
こちらが怒りに震えていても、父が薪ストーブの前でお茶を飲みながら快適に読書をしている姿を見てそのように思いました。
このようなことから、怒りのような感情には取り巻かれないようにして、果物でも食べた方がいいですよね、馬鹿らしい。という経験談を話したりしています。
過日、抗生物質を飲んだら、体質的に受付けず、激しい下痢に襲われ、脱水症状をおこしてふらふらしていた。
すりおろした山芋は、受付可。とろろはとても良かった。
体調を崩すことが殆どないため、動揺してしまうほどのダウンだった。
母が体調が悪かったとき、2年間もこんな状態だったかと思うと、本当に辛かったろうなぁと思い、改めて労うと、「そうだよ」といい、いかに辛かったかを語り出したので、今辛い私はその話は無視して、横になった。
相手のことをわかったつもりになってしまうことは、ついつい多いけれど、本当に自分がそうなってみると、わかったつもりでいたときとはまるで違うし、多分感じ方もそれぞれに違っているだろうから、
相手がそう訴えている時は、もっと謙虚に耳を傾けようと思いました。
また、良かれと思って相手に押し付けてしまう善意も、負担にならないようにほどほどにしようと思いました。
放っておいた母の話は、「不調からいかに復活してきたか」の章に移り、熱を帯び始めていましたが、
こんなに元気になって良かったねーと思いながら眺めながら寝ました。
こういう日は、静かに過ごすのが良いです。
雪だねーと、それ以外、言いようがないことでも言いながら足湯にでもつかります。
犬もストーブの前で温まり、あったかいねーというような一日です。
師走という気ぜわしさに飲み込まれそうな日は、足湯にでもつかると良いのではないかと考えます。
足が湯につかっていると、動けないから、いそがしさに句読点がつく、と思うからです。
どこかで区切ると、流れに飲み込まれるのではなく、新たに流れに乗っていくようなイメージがあります。
サーフィンのように。
雪の日、頭に浮かんだイメージ、サーフィン。
植物が好きなので、歩いているときはだいたい植物を眺めています。
特に好きな植物は、あそこにあれがある、と植物マップがあります。心の中に。
その一つが木蓮です。
去年、12月の雪降る中、木蓮のつぼみが膨らんでいるのを見かけました。
木蓮は、春に咲くのですが、冬につぼみの状態でスタンバイしているのを去年初めて知りました。
春になってからつぼみをつけるものと思っていたので、大変驚き感動し、誰彼かまわず教えたのですが
特に誰からも共感を得て「植物ってやっぱりすごいよね!」と言い合うことができませんでした。
しかし、わたしは12月につぼみを確認したけれど、実はいつからつぼみになっていたのだろう、と去年から思っていたので、今年は雪が降る前から確認してみようと思っていたのです。
11月10日ごろ、木蓮のことを思い出し、見に行くと既につぼみができていました。
いつからつぼみになっているのか、という私の疑問はまた来年に先送りになりました。
ちなみに、サルスベリの木は、幹のみの状態、でした。
さて、そろそろ、ヒヤシンスの準備です。
6月に仕事場を移動してから、あっという間に3か月。
6月の記憶は無く、7月ってあったのかな...、8月は気が付いたら終わろうとしている。
今日、7年前、店舗がない状態で訪問トリートメントを始めたとき、初めてご予約をくださった方をお迎えした。母の友人。
7年前、気を使って、予約をくれたのだった。
今日は、あの時にお家にお邪魔してから、7年ぶりのトリートメント。
トリートメント中、なんだかご褒美もらったみたいに嬉しいわ、とおっしゃっていたけど、
私は、7年前、この人から勇気をもらいました。
さあ、明日から9月。
明日も、どうぞ、いらっしゃいませ。